沖縄のラジオを聴いたら、日本復帰前の生活に興味が
3ヶ月間ブログを頑張り
5月は燃え尽き症候群で
筆が止まりました、、
それに加え
緊迫した国際情勢や
国内ニュースの雰囲気が曇り空だと
今日、最悪の気分で
一日を送っている人がいる中
おちゃらけたブログを書いてもいいのか?
の気持ちの方が優勢、
一応葛藤があります。
月が変わり
6月はこれで5記事目
国際情勢も一時より穏やかで
ブログを書く意欲が湧いてきます。
万が一
インターネット網が
一時的に使えなくなったら、、
SNSで世界各地の方と
人生を分かち合ってる感情や
この面白い記事(自分比^^)を読んで
一日楽しく過ごしてくれる人がいるかも
と妄想しながら、書くブログも
できなくなる。。
思いついたら、できるだけ
面白い記事(自分比^^)の量産を
心がけよう。
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最近インターネットラジオで
沖縄のラジオを聴きます。
昨日、日曜昼からの番組を
聞いていると
1950年代から
60年、70年、
80年代の洋楽が流れていて
特に50年代、60年代の選曲は
よくオールディーズのCDに
入ってる、定番の曲ではなく
知らない曲だけど
なぜか懐かしい
まるで本場アメリカの
街ラジオでかかっている
感じの曲ばかりで
おー選曲が神!
アメリカに住んでるみたい!と
心地よい一時でした^^
ちょうど、去年録画していた
世界で活躍する
女性振付師の番組を観て
スーパーウチナンチュ
に感動したばかりで!
そういえば
モンパチ、オレンジレンジ
HY、ビギン ............
いち普通の県なのに
ビッグバンドも多数!
ラジオ番組も
アメリカンフレーバーが
残ってるー!
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それで、
1972年5月15日に
日本へ復帰するまでの
沖縄の生活
テレビやラジオは
どんな感じだったのだろうと
知りたくなって
検索してみました。
●政治的な支配は米軍が掌握した沖縄。しかし、ハワイやグアムのように完全なアメリカ領土になることはなく、祝祭日は日本本土の「国民の祝日」に準じたものとなっていた。公用語も英語に切り替えることはなかった。
●通貨はドル、日本にはパスポートが必要 。アメリカ統治時代に流通していた通貨はドルとセント。日本に行くにはパスポートが必要で、甲子園の球児たちが「土」を持ち帰ることもできなかった。日本から沖縄に行く際もパスポートと両替の用意が要された。
●クルマも道路標識も米国仕様。1978年まで右側通行だった。
●沖縄県民に「エンダー」の愛称で親しまれている、アメリカの元祖ハンバーガーチェーンA&W。(日本本土には未進出)いまやアメリカ本土でも珍しくなっている1950年代にアメリカで流行ったドライブイン仕様の店舗形式が今も各地で展開されている。 オープン当初、お客さんはアメリカ人ばかり。ドライブインに車で乗り付け、ウェイトレスが運んでくるハイカラなアメリカンフードを車内で食べるそのスタイルは、当時の県民の憧れで「いつか免許をとったらA&Wに行きたい」と思う若者たちも多かった。
(現在の店舗)
●沖縄で最もメジャーなテレビ局である琉球放送(現在のRBC)は米軍放送として開局、発展。本土復帰後も視聴が可能で新聞テレビ欄には番組表が掲載され続けたが、地上デジタル放送への移行により見れなくかった。 アメリカ統治時代にはラジオの英語放送と日本語放送がともに行われていたが、本土復帰翌年に英語放送を閉じている。
●1955年、在琉米軍人向けの琉球放送英語放送局、KSBK放送開始。この局は駐留する米兵のリクエストに応えて、最新の米国ヒット曲をガンガン流していた為、沖縄の特にコザの若者には大人気だったらしく、後のオキナワンロック形成に大きな影響を与えた。
●沖縄県を代表する大学である琉球大学は、首里城の中に開校。(アメリカ時代に創建)ミシガン州立大学の協力を得るなどして発展しており、強いアメリカの影響がある。開学記念式典を挙行した2月12日は、エイブラハム・リンカーンの元大統領の誕生日
●アメリカの政策と文化を住民に理解してもらう為に、1947年に琉米文化会館を開設。 沖縄本島には那覇市を含む3ヶ所と、宮古島、石垣島、奄美大島(1954年本土復帰に伴い閉館)に設置され、後に4ヶ所に分館の琉米親善センターも開館した。 当初は図書館と民政府からの情報頒布であったが、多目的ホールや会議室の設置、市民教室、展示会などが開催され、非常に充実していた。
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今日は、真面目な記事なので
DJぼん君は、お休みです^^